一発逆転の横浜 税理士
日本の場合のコスト高は、産業界のエネルギー効率の高さや、エネルギーの大半を輸入していることによるものだ(注五)。
日本は京都議定書をめぐる国際交渉の場で、日本のようなエネルギー効率のよい国と、他の効率の悪い国が同一の削減率を課せられることは不合理だと主張してきた。
そして六百本),七(米国),八(EU)と差異化が認められ、他国よりも数字の上でわずかの差が生じたことを「日本の主張の正しさと、それを実現するためのわれわれの努力が実った」と自賛する見方も当時の政府内にはあった(注六)。
だが、日本が欧米の一・三,二倍のCO2削減費用がかかるなら、わずか数%の差など意味がなくなる。
「ここまで削減負担に差があるとは知りませんでした」と経産省の中堅官僚は語る。
この第三作業部会報告では、米国、英国、ドイツなどの有力なシンクタンクの研究がそして、民間の側から第三者が、政策をチェックすることもなかった。
国民的な議論も行われていない。
世論は逆に、数値目標が低すぎると政府を突き上げていた。
当時の新聞は「京都会議の目的は(中略)温室効果ガスについて法的な拘束力のある問題を決めることだ」、「目標を低くしてはならない」など、政府に迫っていた。
政府内でも民間でも、京都議定書の決定が経済にどのような影響を与えるか、誰も深く考察しなかった。
京都会議で米国は経済・環境のコンピュータモデル解析を行う専門家約二○人を代表団に加えた。
この「モデル」とは数式の集合体で、仮想上の世界を作って政策効果をシミュレーションするものだ。
専門家らは京都市内のホテルに集まり、そこに大型コンピュータを持ち込んで、交渉の中で数字が変わるごとに国内への影響を試算。
結果を代表団と本国政府に送っていたという。
また、欧州各国の代表団はシンクタンクなどと、頻繁にやり取りをしていた。
一方、会議中の日本代表団では、省庁間調整を延々と続けていた。
「当時は削減コストの分析の必要性がよく分からなかった」とある代表団メンバーは振り返る。
環境問題の多国間交渉で、EU諸国は酸性雨や汚染物質の規制について、域内での多国間交渉を積み重ねていた。
「場慣れしたEU諸国、特に英独と違って、交渉のテクニックや環境条約の国内へのインパクトの洞察で日本が劣っていた」と認める政府関係者もいる。
京都会議の中で日本の政治家、政府内部の人々が懸命に努力したことは疑いない。
だが、未来の立場からみると、国益の観点から日本にもっと有利な結論を探れなかったのかとの思いがぬぐえない。
交渉相手は日本の想定以上の準備を行っていた。
ある経産省の中堅官僚はこう話す。
「IPCCの第三次報告を読んだときは、自分と政府の力のなさを感じて、悲しかったですね。
『B29に竹槍で立ち向かった』という太平洋戦争当時の日本の軍部の非合理性を私たち現代の日本人は笑います。
しかし、同じことを繰り返してしまったのかもしれません。
政策決定過程の中で科学的合理性を追求する場面が少ないまま、日本は京都会議に勢いだけで欧米にぶつかってしまったのです」。
一九九七年一二月三日午後二時、京都議定書が採択された。
京都会議の議長だった大木浩環境庁長官が木槌を振り下ろし、閉会を宣言すると、参加者から大きな拍手が起こった。
大木氏は「興奮や感動よりも、ようやく妥結したという安堵の気持ちが大きかった」と当時を振り返る。
議定書の討議は一○日に予定されていた最終日を越え、徹夜の審議の末に決着した。
このため、寝不足による疲労感が参加者の間を覆っていた。
「代表たちも正確には何が達成されたかほとんど承知していなかった」と皮肉を込めて語る学者もいる(注一)。
各国の首脳は議定書の締結を高く評価した。
日本の橋本龍太郎首相は「一二世紀に向けて各国がその立場を乗り越え、確実な第一歩を踏み出したことは、人類の歴史に残る大きな進歩である」と語った。
クリントン米大統領は「歴史的な合意に達したことは喜ばしい。
先進国が足並みをそろえ、力強く一歩を踏み出したことは大きな成果である」との声明を発表した。
途上国側からも肯定的な見方が並ぶ。
中国政府は「中国は京都会議の成功を非常に重視しており、議定書の採択は大変喜ばしい」とコメントしている。
地球環境問題担当大使だった田辺敏明氏が「日本外交にとって画期的なこと」と回想で記したことも、決して誇張ではないだろう(注三。
日本政府に対する賛辞も集まった。
「京都会議は環境関係の国際交渉の中で最も困難なものであったところから、不成功に終わっても不思議ではないと思っていたが、議長国日本の粘り強い努力もあり結果は成功であった」(ドイツのフィーゲン環境省国際部長、当時)。
「日本側の会議運営は素晴らしいものだった」(インドのアナンド環境森林省次官、当時)など、決して外交辞令だけとは思えない言葉が記録されている(注三)。
日本の世論も、京都で結ばれた議定書を積極的に歓迎した。
朝日新聞は「危うげな半歩だが、足腰を鍛えていけば、大きな歩みにつないでいくことができる」と社説で論評した。
経済界の主張を代弁することの多い日本経済新聞も、社説で「京都会議を機に新しい時代を築こう」と呼びかけ、「拘束力のある目標を設定したことで、会議は一応、成功したと評価することができる」と主張した(注四)。
私事で恐縮だが、当時の思い出を語りたい。
私は一九九七年当時、経済部の駆け出し記者として、東京・日本橋本石町の日本銀行本店内にある金融記者クラブに配属になったばかりだった。
同年二月には山一証券、北海道拓殖銀行が連続破綻し、日本は経済恐慌の瀬戸際に立っていた。
張り詰めた雰囲気と日本経済の先行きへの恐怖感が漂っていたこの記者クラブで、先輩や他社の記者らがテレビから流れる京都からの報道を眺め、「暗い話ではなく、地球の未来にかかわる仕事をしたい」とつぶやいていたことを覚えている。
私は議定書の詳細を知らなかった。
だが、よいことが決まったと肯定的に議定書を受けとめた。
日本の大多数の人も同じような感慨を持ったのではないか。
九七年当時を振り返ってみる。
「改革」を掲げた橋本政権は二月に財政構造改革法を成立させ、四月に消費税率アップ、九月に医療費の患者負担率の増加を実行した。
この結果は、景気の急速な冷え込みと大手金融機関の破綻、二年連続のマイナス成長だった。
この影響は二○○四年まで続いている。
「経済失政」とも形容された政治・行政への不信が盛り上がった。
こうした中で、京都議定書の締結は唯一の明るいニュースだったかもしれない。
報道には「環境保護」、「地球温暖化防止」という文字が躍った。
トョタ自動車が京都会議に合わせ、同年一二月一○日に、CO2排出量の少ないハイブリッドカー「プリウス」を発売したところ、月産一○○○台の生産ペースでも追いつかない予想外の売れ行きとなった。
環境によるPRやビジネスに企業が本腰を入れ始めたのも、議定書の締結からだ。
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